同い年の二人は
ボンの宮廷が崩壊したあと、
ベートーヴェンはウィーンで、
ライヒャはパリでそれぞれ成功しました。
しかしベートーベンは難聴が進み
遺書を書くほどの精神状態でした。
そんな時、ハイリゲンシュタットからウィーンに戻った
ベートーヴェンのもとに、幼なじみのライヒャが訪ねてきました。
当時、工業大都市化が進んだパリのピアノは
5オクターヴ+5度まで広がりがあり
弦も全音域で三重になっていました。
それに比べてまだまだ地方都市のウィーンの
ピアノの音域は5オクターヴ+2度で、
ライヒャは、才能のある親友が
古いピアノしか持っていないのを残念がりました。
パリに戻ったライヒャは、最新のピアノが
ベートーベンの手に入るよう奔走します。
パリのエラール社から、最新のピアノを贈られた
ベートーベンは、このピアノの広い音域を最大限に活かした作品を
作ることになります。